弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 13 Mar 2019 15:31 - 0

じょうどのことばのいみは、じょうどのせかいいがいにない。
いきてこれをおもいえがいて、やがてじょうどへかえる。
じょうどには、いろんなひとのおもいがあって、それらのし
あわせをかなえるもっとすばらしいせかい。おしゃかさまの
おこころもあって、ひとびとをすくうためのえいえんのせか
い。おねんぶつでつながる、ほとけのせかい。ひとびとを、
すくうためにほとけである。すべてのひとをむかえいれるた
めに、おじょうどである。いのちはここにさだまり、ひとと
してのまよいをさずかって、にんげんとしてうまれてくる。
おしゃかさまは、にんげんをえらんでうまれてきた。それは、
さまざまなひとのまよいのなかから、ブッダとしてのまよい
をえらびとった。すなわち、じんせいをすべてくるしみとし
て、よにいきる。すべてのひとを、すくおうとするひとりの
にんげんとして、えらぶるまよいのおろかさではなくて、じ
ゅんすいなしんじつのとうとさであるために、そのみのらく
ではなくて、つねにひとびとのためにくろうすること。これ
はまよいというより、じんせいをさだめたみちとしてのさと
りである。これを、たしゃをまどわさず、たしゃをおなじく
じんせいのさだめたさとりにみちびく。あらそいをまねくわ
がみのらくではなく、えらぶるわがみのまよいではなく、そ
のみひとつでいきるうえでのくろうであるとして、にんげん
をえらんでうまれたところの、いきかたである。
じょうどをときあかせば、かならず、ひとびとは、あらそい
をおえることができるにちがいない。おしゃかさまは、おな
じにんげんとして、たしゃとあらそうかわりに、たしゃをさ
とらしめる。だれかがやらねばならぬいきかたを、みずから
えらぶとうとさである。

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