弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 09 Mar 2019 19:43 - 0

ぼくにとって、けっして、じんせいはギャンブルではない。
まいにちのどりょくのつみかさねのうえにある。つまり、
とくをしたときだけ、しょうらいがあるのではなく、そん
や、とくにしばられないどりょくがある。
ところで、システムには、うそや、ごまかしはつうようし
ない。すべてがけっかとしてあらわれて、じぶんのてもと
にかえってくる。じぶんのために、ひとつひとつ、にゅう
りょくさぎょうをつみかさねるひつようがある。うそや、
ごまかしは、なんのためにもならず、いっときのきのまよ
いで、じぶんじしんをうらぎることになる。たにんを、う
らんだところで、けっきょく、じぶんでくろうするしかな
い。いまげんに、ただしいくろうをえらぶべきなり。みら
いをうしなうことはできない。したがって、じぶんのくろ
うから、にげることはできない。
システムにとって、しごととしてのにゅうりょくさぎょう
は、しごととしてかえってくる。そんとくかんじょうは、
かんけいない。にんげんのつごうより、システムのつごう
でかんがえると、しごとになる。あらそいむようのしごと
のどりょくが、しょうりのあかし。

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