弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 09 Mar 2019 00:33 - 0

しぬということは、ぼくにとって、まったくなにもこわいことではない。
だが、しにたいというきもちは、おさなごころのなまけごころであると
いえる。ぼくは、いきるうえで、しぬことよりもはるかにつらいじんせ
いをあゆみたいとおもって、どりょくしている。それは、じぶんじしん
に、かちたいから。かてたときには、わらうようにしている。つらくて
も、わらえるときには、かてたとおもう。そうであるから、しぬことは、
じんせいで、もっとも、もったいないことであるとおもう。そのかわり、
まいにち、しぬようにねむりたい。そして、あさは、げんきにめざめた
い。たいようよりもすこしはやくおきて、よあけとともに、いちにちを
むかえたい。ぼくにとって、しあわせとは、じぶんのいしでいきること。
なまけごころは、てきであるが、じぶんがいきていることをかんじる。
このかちまけを、てんにゆだねて、ただしいくろうをえらび、くるしみ
のなかにこそ、せいちょうがあることをじっかんしながら、しぬまぎわ
まで、くろうしたい。ぼくにとって、おとなのいきざまは、へいぼんな
くらしにみる、なみだのあせにある。このひとみを、まもりつづける。
けっして、じぶんのわがままにはならないこのじぶんのひとみは、にく
たいをうつわとしてまもりつづける。ぼくが、しぬことをゆるさないこ
ころづよいみかたである。じぶんのなまけごころを、みぬいてくれる。
まいにち、おさなさにうちかち、しぬようにねむりたい。
このひとみが、ちからつきるときに、ぼくはすくわれる。

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