弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 05 Mar 2019 18:50 - 0

しょうどうもんは、あらゆるもんだいをみいだす。ここに
かいけつとしてのこたえをだして、これをりゆうとして、
こうどうする。ここにただしさがある。このただしさによ
って、もんだいとなったきけんせいをさけることができる。
きけんをさけてから、あんぜんをかくほする。これが、じ
ぶんでできることが、さとりであるといえる。
じょうどもんでは、まず、あんぜんをかくほする。ここに、
おねんぶつがある。そこにすでに、かんしゃのこころをま
なぶ。あらゆるもんだいは、じぶんがそのときに、くろう
としてひきうけて、おなじもんだいのなかで、ともに、お
ねんぶつとしてのしんじんをわけあう。きけんせいは、に
ょらいえこうのりやくをしんじるところに、すでに、この
もんだいが、にんげんせいのまよいにみるすがたとして、
まなび、たがいをりかいすることにつながる。
どちらも、ほとけのおしえであり、ぶつどうであるといえ
るのは、まなぶたちばのちがいから、そこにいきるひとが
いて、どちらかではない。どちらも、ひとのいきるみちと
して、ひとがかならず、すくわれなければならないという
ことにちがいはない。ただしいさとりにて、じょうどをい
ただくことができる。みずからさとり、あるいは、ほとけ
のさとりにあずかり、かならず、すくわれるみちがあると
いうこと。おじょうどがあって、おしえがあり、そこに、
ひとのまよいがあるといっても、さとりもある。みずから
おしえにであって、そこにじんせいが、みちとしてひらか
れる。

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