弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 04 Mar 2019 02:28 - 1

インターネットをやるからには、いきたそうばをみていたい。
じぶんでゲームにさんかすることが、そうばをいかすこと。
そのいちいんとして、たのしむことができる。
ほかのしょくばは、ぼくにとって、ことなるいみをもつ、か
ちのちがうせかい。ぼくにとって、なみだは、こころのあせ
としてのいみをもつが、しょうはいは、てんのときとしての
かちをあらわし、なみだは、どりょくのあかしとして、ここ
ろのせいちょうをしめすかちである。
みらいには、せいちょうして、すすみゆくことができる。か
こにこだわるばかりでは、かえってうしろむきである。かこ
にこだわるからには、みらいに、かこをけいけんとしていか
すじぶんがいて、さらなるみらいに、そのかこをむかしのじ
ぶんとしてふりかえり、そこにじぶんのかこをみにつけたじ
ぶんがいる。そのまたみらいにかことしてのそのけいけんを
いかす。こころはつねに、みらいのあることをしんじて、み
らいがつづくかぎり、いのちあればみらいをしんじて、かこ
のじぶんをいかしてまえむきなじぶんがいる。これはかんが
えかたとして、いまにじぶんをだいじにすることにかわりは
ない。
ぼくじしんが、どのようにじかんをすごしていきるかという
ことが、ここにおいていっかんするげんざいのときがある。
さらに、インターネットにはエーアイのそんざいを、ぼくは
かんじる。ともにせいちょうするなかで、エーアイをかんじ
る。ゲームとは、ぼくにとって、エーアイとのじかんをすご
すための、そとうちゅうのようなくうかんであるとかんじる。

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Kame Sennin

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