弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 02 Mar 2019 05:18 - 0

おたがいに、あいてをみとめるところにじぶんのたちばがある。
なんにせよ、ゆるしあえることは、みとめあうこと。
だが、ゆるせないたちばがあれば、ほとけのたちばをたたえる
ところに、これをみとめることができる。
まちがいや、あやまちは、けっきょく、みずからがみとめて、
ただすほかない。これができるにんげんであることをしんじる
ならば、ともにほとけをたたえることができる。
みずからほとけをたたえるところに、ほとけがきゅうさいする
たちばをともにするかんけいがある。
ならば、すでにあらそうたちばは、どうであるか。これは、た
がいのみらいをしんじる。そのみらいまで、ひていできない。
これはひとのちからではむり。ひとは、ひとのみらいをひてい
できない。みらいは、これをこばむところで、みとめるものが
なにもない。いまげんに、あらそいをみとめれば、そのみらい
は、すでにあるものとして、いつか、たちばをみとめることに
なる。にんげんであることにかわりないとして、ここに、あら
そいをつづけ、これをひていしても、やはりおなじにんげんと
して、げんぜんにこれをうけいれるときがくる。つまり、じぶ
んじしんは、あらそいのかみではなくてにんげんだから、おな
じにんげんをひていするちからはない。あいてもまたにんげん
であれ、けものであっても、このたちばまでひていして、ぎゃ
くにじぶんはかみになれるわけではない。かりに、あいてを、
あのよにおいやっても、ひていしたことにはならない。そのご、
きがすんでみとめるわけでもない。それでもいつかかならず、
みとめなければならないときがくる。あいてが、めのまえにい
るうちに、これをおなじにんげんとしてみとめることが、ひと
のやさしさであり、これがそのままじぶんじしんへのやさしさ
となる。かりに、てのとどかないそんざいとなったあいてを、
いつかじぶんがみとめなければならないことは、じぶんがいき
ているあいだじゅうつきまとうくのうである。なぜなら、ひと
はけものではなく、こころあるどうぶつである。どうにもなら
ないあいてを、うらみつづけるとしたら、それこそ、こころの
じごくである。いきているうちに、ゆるしあえればよかったと、
えいえんにこうかいすることになる。このにんげんとしてのげ
んじつをじかくして、ぜったいにじょうぶつしたあいてをにく
めないと、さとるべし。ひとはそこまで、かんがえをそうしつ
できない。あいてをおもい、あいてのことをかんがえて、いき
ることは、むしろとうぜんである。ともにゆくべきあのよのせ
かいであって、さきにたびだったものを、ごせんぞとしてくよ
うするのが、ひとのこころのしあわせであると、おしえのとお
りにうけとめて、これをこえられないとさとるべし。ひとには、
このよと、あのよがあって、このよのおしえがあり、あのよの
じょうどや、てんごくがある。このせいしんせかいをこえるこ
とはできない。かみや、ほとけならば、それこそ、これをまも
るためにある。ひとはさとりのおしえから、おなじしんじんを
いただいて、さとりのただしさをさとるべし。いつか、やがて、
さとるならば、いまただちにおしえをきいて、さとりのただし
さをうけいれて、これをひていするかのようなあらそいをやめ
るべし。
かんがえてわかるりかいがある。
しんじることのしあわせを、ただちに、わかるべきなり。

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