弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 02 Mar 2019 03:10 - 0

おかねのもんだいが、なぜじゅうだいであるか。これは、おかね
こそが、じんるいにとって、へいわのはつめいであるから。だが、
しかし、ここにおおくのもんだいがあるのは、じつは、にんげん
かんけいのもんだいである。このにんげんかんけいを、ぶきでは
なく、そうごりかいによって、かいけつがもたらされるもんだい
として、おかねのもんだいがある。ぎゃくにいえば、そうごりか
いなくして、ひとつのかいけつもない。ここに、ちつじょのほう
りつと、いしそつうのためのことばと、かくにんのためのほかん
ぎじゅつで、そうごりかいのほうこうせいをまもるのが、しゃか
いのしくみである。また、おかねについて、へいわりようするた
めに、けいざいがある。まちがいや、ごかいにより、おかねのも
んだいは、なくならないが、しゃかいのしくみによって、かなら
ずかいけつできるそなえがある。しかし、これを、かいけつさせ
ないげんいんは、つねに、あらそいと、まちがいにこだわるとこ
ろのにんげんせいにある。じぶんちゅうしんのかんがえは、びょ
うどうのしやをなくして、おかねこそはひとにぎりのものたちの
ためにあるというごかいによって、あつかいかたをまちがえる。
ひとのじかくのなかには、びょうどうのおしえのせいしんだけが、
あらそいのじごくから、ひとをすくうことができる。
これは、どうしても、かってなつかいかたはむりであり、けっき
ょくは、じぶんのむりょくをじかくし、たいとうないけんをみと
めるところにおちつくものである。
こだわりをすてて、びょうどうをうけいれるところに、おかねの
このほんとうのいみを、もとめるしかない。
ほとけのおしえには、おかねだけではなく、すべてのものが、ご
えんによってさずかるものであり、じぶんかってはできないこと
をさとす。ごえんとは、にんげんかんけいのごえんであり、これ
によって、なにごとについてもあつかう。あるいは、ごえんであ
れば、これをはなれる。ごえんをだいじにすることは、うんめい
をしんじて、じぶんのかってをてばなし、てんのもとのどうりに
したがうことである。
このことはつまり、そうごりかいこそが、ゆるしあいということ
である。

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