弐蜂

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Published in Japan - Social interactions and entertainment - 02 Mar 2019 01:50 - 0

ぶっきょうには、だれからもみえる、おしえとしてのしんじつがある。
これは、いんがおうほうのおしえである。つまり、なにかげんいんが
あって、そのけっかがある。しかも、よいことをすれば、よいけっか
があり、わるいことをすれば、わるいけっかがあるとしめす。
ひとはだれもが、せいちょうするひつようがある。ここにおけるおし
えとして、ぜんあくをみる。せいちょうのために、これをさまたげる
のがあくであり、ただしくせいちょうすることをよしとする。じぶん
のおこないは、やがてじぶんにかえってくるというのが「いんがおう
ほう」である。ただしさゆえにこのましいことと、みずからをさまた
げるからのぞましくないことについて、「ぜんいんぜんか、あくいん
あくか」というのが、いんがおうほうのなかみである。これを、にん
げんとしてふさわしいかんがえかたをまなぶところで、じぶんじしん
のかんがえのなかに、これをおしえとしてせいりする。さらに、どう
りであるとみるところに、しんじつとしてのおしえがある。つまり、
だれもが、これをうけてじんせいのとうじしゃとして、ぜんあくを、
みずからはんだんする。こころのすがたとしてのせいちょうを、みる
ならば、にんげんらしさをしんじるこころのふかまりが、わがみのし
ょうらいのぜんかへと、じんせいをあゆむことができる。
このおしえは、おしゃかさまが、じぶんのしろをでるというタブーに
おいて、これをぶっきょうじょうじゅのじんせいとして、だれもまね
できない、なおかつ、だれもがたたえるところのしんじつとして、タ
ブーがうまれかわった。いんがおうほうの、ぜんいんぜんかを、おし
ゃかさまみずからが、じっせんしたところにおけるおしえである。
よをすくうために、だれもが、かならずすくわれるべきであると、お
しゃかさまみずからがしんじて、まったくこれをあきらめず、ついに
おしえとしてせいりつするといういんがにもとづく。このおしゃかさ
まも、にんげんである。
ひとびとのこんなんは、かならずげんいんがある。そして、じんせい
には、ひととおりのくろうというのがある。うまれてせいちょうして、
かぞくのくろう、おやのくろう、いしょくじゅうのくろう、けんこう
のくろう、しごとのくろうなど。これには、ただしいくろうのしかた
がある。すなわち、どりょくのかいがあるくろうをすること。そのた
めに、あらそわず、げんいんを、じぶんじしんのなかにもとめる。つ
まり、じぶんのじんせいを、じぶんでなんとかする。またそこで、お
なじもんだいで、おなじくろうをせおって、そこにきょうりょくする。
しかも、あらゆるひとびとと、たすけあえるおしえをとく。つまり、
ひとはみな、びょうどうである。これをわからなくても、しんじれば
よい。
おしゃかさまにとって、ひとびとのすべてのこんなんを、わがみでう
けとめることは、あいてとおなじこころでなやみ、おなじもんだいで
おなじくろうをうけとめ、そこで、そうしたみずからのじんせいが、
かならずや、すべてくるしみであるということを、みずからのさとり
とすることにある。それには、このよで、じんせいで、あるいはあの
よで、どうするべきかのこたえにおいて、こたえをともにあきらめず
にかんがえて、そこにこたえが、すべてのひとびとといっちする。こ
れが、ぶっきょうのしんじつのすがたである。
ナムアミダブツとは、しんじつをほとけとして、ひとびとにしょうか
いすることばである。これは、しんじつといういみだけのことばとし
て、これをもとに、ひとのすがたのしんじつを、ひかりとしてあらわ
すおしえである。

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