弐蜂

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Published in Japan - Social interactions and entertainment - 01 Mar 2019 02:26 - 0

ぶっきょうのおしえは、そのすべてが、ほうべんであるといえる。
なぜ、ほうべんであるかは、そのりゆうがひとびとをまもるため
であることにつきる。がんらい、しんじつとは、ひとをかばうた
めにある。つまり、あらそいや、せんそうからひとびとをかばい、
みがわりとなる。しかも、そうでありながらも、へいぜんとして、
むしろかがやく。それが、ほとけである。だからこそ、それは、
だれにとってもかわらぬしんじつである。さらに、ひとびとから、
もとめられるためにすべてがほうべんであり、しかも、ひとのま
よいをまもるために、ほうべんである。まよいが、あらそいや、
せんそうにならぬために、これがかえって、ひとのつながりとな
るまよいであるために。そのためならば、ほうべんは、しんじつ
であるひつようがない。あえて、おしえは、ほうべんである。ほ
とけとして、しんじつを、ほうべんでつつむ。ひとは、まよいの
なかにこれをなぐさめとして、あらそいをたつために、おしえの
じょうどへと、みをささげる。ひとであるならば、おにではなく、
たとえいかりにみちても、これもまたまよいであり、じゅんすい
ないかりではない。ひととしてのじかくにより、じょうどをもと
めるところに、しんじつがこころとしてある。せかいのすべてが
おしえとしてこれをうけとめて、けっして、ひていされるもので
はない。ぎゃくに、しんじるこころとして、ともにうけとめるた
ちばがある。このおしえをいただくところに、あらそいのあやま
ちにこだわるようなおにではなく、ひととしてのじかくにめざめ
る。ほとけがほうべんとしてあるところには、どこでもただちに、
ひとのこころのすがたをみることができる。あらそいとは、ひと
のしょうじきにあらず。まよいをきわめた、むじかくな、ひとの
かんじょうである。これを、ほうべんとしてのほとけのすがたは、
これをうけとめるひとのこころに、もとめるしあわせと、われを
わすれたあらそいのむじゅんを、おしえるものである。
ほとけをまえにして、これをまったくなにもわからぬことはない。
ほうべんとは、これにであうものが、そのじがにより、もとめる
なにかがある。かんじょうにながされ、われをわすれて、いかり
にみちても、なんでもないほとけをまえに、にくしみにこだわり
つづけることはできない。きよらかに、じゅんすいに、そして、
えいえんにかわらないというのは、にんげんがゆうげんであり、
げんかいがあって、ゆえにこれがないとおもうのである。ほとけ
は、ほとけとしてかわらない。ほとけにであうそのしゅんかんに、
えいえんがある。ここに、きよらかで、じゅんすいにひとのうけ
とめとなるすがたがあって、これがほうべんとしてのぶっきょう
のすがたである。
ほとけをわすれ、しんじんがみえないのは、にんげんのもんだい
である。ほとけのそんざいは、ただ、えいえんであるとしてかわ
らない。これを、もとめるのは、いかりでもよい。あらそいのな
かでも、ひとは、にんげんとしてのじかくをえて、ふこうをきわ
めることはできないと、だれもがしんじること。そうであるとし
て、おしえのそんざいがあるもの。

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