弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 26 Feb 2019 21:56 - 0

ひとのなみだ。それは、どうぶつとしてのなみだ。
なぜなら、ひとのかんがえのなかで、どうぶつは、
よんほんあしのにく、としてのそんざいをかんじ
るときのかなしみにひとしい。
ひとにはほねがある。これはひとのかんがえであ
る。ほねをやすめるために、ひとには、このかん
がえがひつよう。どうぶつは、ほねをやすめるた
めに、このかんがえはいらない。ならば、ひとに
は、にほんあしのどうぶつとしてのやさしさがあ
って、そのために、なみだをながす。これは、ひ
とが、どうぶつとしてながすなみだ。ほねにたい
するいたわりは、やさしさとしてのどうぶつであ
るにんげんのとくちょうである。ほねをいたわり、
ほねをくようするのは、このなみだを、ちえのあ
かしとして、けっしてすてさることをせず。
ほかのどうぶつは、このにんげんのやさしさによ
って、こころのやすらぎをおぼえ、ひととおなじ
こころがあることをわかる。これが、どうぶつの
ちえとして、ほねのあるあかしのしんらいかんけ
いを、よろこぶところである。ともに、よろこべ
ば、おなじめせんにたつときのしんらいをかんじ
るものである。
ゆうきのかたちは、こころにひかるあせにつたわ
る。

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