弐蜂

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Published in Japan - Social interactions and entertainment - 26 Feb 2019 02:46 - 0

ひとの「たちば」について、そのこんぽんは、えいえんの
といにであうところにある。つまり、にんげんのたちばと
しての、じかくをうながすところ。そのえいえんのといは、
「しんじつ」について。これはまさに、「しんじつ」とは
なにか?このといのこたえが、さらなるかんがえをしょう
じて、そのけつろんにいたるとき、ふたたび、しんじつと
はなんであるか?をかんがえる。ここに、しんじつとは、
なにかということは、かんがえのもとになるさいじゅうよ
うなといである。
つまり、それは、いったい、ほんとうに、じぶんにとって、
どのような、なにごとであるか?くりかえされるそのとい
のなかに、いくつもかんがえがつらなり、しんじつのこと
ばをじくとしながら、さいごに、かならずおなじといがの
こる。これが、かんがえるなかにおける、たちばとしての
こんぽんてきな、にんげんせいにきょうつうするもんだい
としてのかだいである。つまり、にんげんせいと、かんが
えかたと、じぶんこじんについて、これが「しんじつ」と
いうことばによってつねに、しょくはつすることができる
ところの、「たちば」がそこにある。このかんがえのなか
に、たちばについてじかくするときに、だれでも、どんな
じょうきょうでも、とうじしゃとしてのたちばのもちぬし
にじぶんをじぶんでじかくすることが、すべてのたちばに
きょうつうして、そのこんぽんにある。
ことばにであうときから、かんがえることがはじまる。
どんなこたえでも、にんげんのたちばとしてみれば、かん
がえかたとして、たしゃのみとめるところにおちつく。

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