弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 26 Feb 2019 00:58 - 0

かりに、ゆうきがあればすべてがうまくいく。
そのゆうきをだすまでもなく、もつつもりもない。
ゆうきがないから、でも、いらない。わかるのは、
しんじること。これがよくわかる。こころがその
ゆうきをもとめないほど、しんじることがよくわ
かる。そのときがくることを、しんじることがで
きる。ときのながれをかんじるのが、きもちをさ
だめることがいらないこころのまま、そのふあん
のなかにあるから、できるまましんじるからには、
なぜしんじるか?とのりゆうも、なんでもよい。
むしろ、うたがうのはなぜか?そのりゆうがほし
い。しんじるときのふあんであって、うたがうと
きのふあんでないから、できるならうたがえば、
このふあんが、ゆうきをもとめるだろう。ときの
ながれをしんじるこころが、ときがくるのをまち、
なにか、すべてをくるわせるこころがあるという
まちがいのうたがいをあきらめることができない
が。しかし、そういうふうにしんじているこころ
をすてるほどのゆうきもいらなくて、だから、も
しも、かりにうたがうことで、ゆうきさえあれば
すべてがうまくいくというきぼうをもつときの、
そのおめあてがけっして、てにはいらないという
じょうきょうのふあんにはたてない。ここにたっ
てこそ、いだくべきであるゆうきをもつときのそ
のしゅんかんは、わたしのこころのなかにない。
わたしのこころには、いまになんのゆうきもなく
て、でもしんじることができるから、あえて、と
きのながれをかんじるときのふあんにたつ。しん
じることができるそのりゆうについて、わたしじ
しんこそが、いろいろとかんがえて、じかくをふ
かめてゆくなかでときがながれる。これについて
のふあんは、これがかえって、わたしにりゆうを
もたらすので、したがって、まちつづけるための
どうりょくである。しんじることができていると
いうじかくは、ますますふかまる。

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