弐蜂

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Published in Japan - Social interactions and entertainment - 25 Feb 2019 00:49 - 0

ねんぶつしゃは、ゆうきがしんじつである。なぜなら、ねんぶつは、
しんじついがいにない。このしんじつは、ひとのまよいにこたえる
ために、ろくじのみょうごうをなのるしんじつである。すなわち、
これをうけとめるものは、じぶんのまよいをじかくするゆうきと、
まよいをはなれたしんじつをもとめるゆうきによって、ただ、しん
じつでしかないみょうごうをえらびとる。まったく、ひとのよくを
かなえるのではなく、まよいをさとらしめるためのしんじつである
だけ。これをえらびとるには、じゅんすいなゆうきいがいにない。
このゆうきを、ほとけのしんじつにおうじるゆうきであるがゆえに、
「ぶっしょう」という。まよいのなかにも、よくのなかにも、どの
こころにもすべて、このぶっしょうがやどる。なぜなら、しんじつ
があるからこそ、ひとにはまよいがある。しんじつが、しんじつと
してじゅんすいであるから、ひとのまよいはなくならない。しかも、
これをもとめるために、よくであれ、ゆうきであれ、ひとのまよい
によってもとめられるところの、ほとけというじゅんすいなおしえ
にて、きゅうさいのとうたつをねがわずにおれない、じゅんすいな
しあわせのしんじつをこころのうちにときあかす。これは、にんげ
んとしてきょうつうするところの、ゆうきとしてのこころのしんじ
つのすがたである。これについて、じかくするものは、じぶんじし
んと、ねんぶつとのかかわりにおいて、まさに、ねんぶつしゃであ
るといえる。

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