弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 24 Feb 2019 18:25 - 0

せんそうについて、もしも、かりに、すきだからやるということでは、
むしろ、はなしはかんたんである。つまり、きらいになればやらない。
だが、いやだとわかっていても、ひつようならばやる、ということが、
じつに、しんこくなじょうきょうにあると、おもうところである。こ
のじょうたいは、つまり、ながねん、つづくたいりつは、ただ、しょ
うとつではないということだけをいみするものであるといえる。けっ
して、へいわをいみするものではない。ほんとうのへいわとは、あら
そいのひつようがあるとしても、やらないこと。さらに、そのひつよ
うがないところにおちつくものである。このじかくを、すっかりうし
なっているところに、ながねんのたいりつのかんけいがある。わへい
とは、あらそいをすてるところにあるもので、すくなくとも、ただた
んに、きゅうせんや、ていせんということではない。あらそいのさい
かいをふせぐために、ひつようでもやらないといういしのかくにんが
もとめられる。これをやらないのは、いわば、せんそうがいやで、き
ょうりょくもいやで、たいりつのかんけいをみずからえらぶことであ
る。それほどいやなきょうりょくを、ひつようだからやるということ
でなければ、けっきょく、せんそうについても、いやでもひつような
らばやるということが、ほんねであることをものがたる。つまり、あ
えて、たいりつをえらぶことで、きょうりょくはしない、なおかつ、
せんそうはやるというかまえであることをいみする。きょうりょくこ
そは、ひつようならばいやでもやるのが、ほんとうのたいとうなかん
けいである。このかくにんができないならば、そこで、すべてのしん
らいかんけいは、もじどおり、かたちだけで、たいりつをえらぶため
に、あえてしんらいということさえも、りようするということがみて
とれる。これがつまり、しょうとつではない、というじょうたいのみ、
いみをなすところである。これを、ちがうといえるだけで、きょうり
ょくのかのうせいをしめすところである。

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