弐蜂

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Published in Japan - Social interactions and entertainment - 24 Feb 2019 04:06 - 0

ぶっきょうでは、くにのためのおうではなく、じぶんじしんのおう
である。すなわち、くにをせいするのではなく、じしんをせいする。
そのためのおしえをいただくのが、ぶっきょう。なぜなら、じぶん
がせいするようなはたらきが、えらぶるためではないから。ぎゃく
に、わがみにとっての、あらゆるもんだいのげんいんが、すべて、
じぶんじしんにあるとみて、だからこそ、たしゃをせいして、かい
けつできるとはしない。せけんがすべてそうであるべきではなく、
おしえをいただくこころにおいてこそ、それができる。つまり、じ
ぶんをせいすることにより、じぶんじしんでいきてゆけるものとな
り、けっして、たしゃをじゃまにしない。ほとけのおしえをこころ
ざして、これができることが、ぶっきょうのおしえである。

ところで、おしえをいただくことにおいて、だれでもそれができる
ようにと、ねんぶつのおしえがある。
けっきょく、ぶっきょうとしてのねがいは、だれもが、あらそいを
はなれて、へいわにいきること。だがこのじつげんは、そのために、
せかいじゅうのおおくのひとびとの、2500年ものどりょくと、
くろうがある。じつに、こんにち、ねんぶつにたくされたねがいは、
まさに、このけつじつにある。
そこで、くにのちつじょは、ほうりつがまもる。それだけではなく、
じぶんのじんせいを、じぶんでまもることがひつようであるから、
そこで、たしゃをじゃまにしない。つまりは、たすけあうこと。し
かも、だれとでもたすけあえることは、ほうりつのルールとどうじ
に、じぶんから、じしゅてきなじかくのもとではんだんする。この
はんだんにおいて、ねんぶつをえらぶことがおなじはんだんである。
ねんぶつのすぐれたるところは、かりに、ねんぶつをじゃまにして
もよい。あるいは、りかいがなくてもよい。じつに、このよのせか
いは、すべてのうごきや、はたらきが、ひとつであるとして、ほと
けのおしえがある。このひとつのはたらきにめざめるために、ねん
ぶつのおしえがあれば、それでよい。ひとは、じぶんじしんのしあ
わせをねがうものであり、これにそむくことはない。なんらかの、
しあわせをもとめていきるということがあって、だれでもみんな、
しあわせとはなにかをかんがえる。かんがえるということが、まな
びである。なにも、ここに、せいかいがひつようなわけではない。
ねんぶつがあれば、だれも、これをむにすることはできない。ねん
ぶつのそんざいをけしさることはできず、したがって、しあわせを
もとめるまなびは、なくならない。たとえ、せんそうであっても、
それはむり。2500年のどりょくと、くろうは、そのためである。
つまり、むようなあらそいにこだわっても、しあわせをなくすこと
はできない。
このじじつをうけとめて、ゆえに、たしゃをじゃまにしない。ねん
ぶつのそんざいのかかわりから、はずれるものはいない。ぶっきょ
うのたちばは、それをわかるところにある。

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