弐蜂

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Published in Japan - Social interactions and entertainment - 08 Feb 2019 19:45 - 0

つまり、「し」とはなにか?このといをいえるところにおいて、
「し」というものが、ある。いわばこれは、じぶんがいのちだけ
のそんざいにかえること。からだも、こころもじぶんをすてて、
いのちだけのせかいにかえる。すなわち、これをそなえるから、
これが、このほしと、にんげんとしてのじぶんとの、えいえんの
れんあいであるといえる。

そして、からだがだいちにかえり、こころが「じが」をはなれる
ところにおいて、いのちのせかいのおしえがある。
これが、ぶっきょうがいうところの「じょうど」のおしえ。じょ
うどとは、じゅんすいであるがゆえに、きよらかな「いのち」の
せかいとしてこれをときあらわし、さらにこれをじがのこころと
からだでうけとめるといういきかたが、つまりはこころとからだ
をみずからのいのちでいきるところでのじゅんすいな、にんげん
としてのかつどうをあきらかにする。

すなわち、「し」だけでなくて、いきるなかにも、このほしとの
みっせつなれんあいかんけいをもたらす。こころとからだをだい
じにして、おしえをうけとめることが、すでにまよえるくのうの
「し」をいみする。おしえにいきておのれをだいじにするならば、
からだがつちにかえるときも、こころがじがをはなれるときも、
いのちそのものは、じぶんのたましいとして、えいえんにほしと
ともにいきる。せいとしをくりかえして、いつまでもたましいが、
じぶんのそんざいじたいにおいてけいぞくする。

だからこそ、このほしは、うちゅうにひとつのこどくなほしでは
なく、いのちあふれるほしである。まさに、ひとは、えいえんの
たましいのなかに、このうちゅうで、このほしとしてのだいちを
けっしてうしなうことはない。それはこのほしそのものにとって、
ほしとしての「せい」と「し」をのりこえ、ほしのじゅんすいな
いのちのぶぶんで、うちゅうにながれるじかんについて、えいえ
んにひろがるひかりとやみをうけとめるものである。

だれでもそうであるが、それをもとめるときに、それをうけとめ
るのである。

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