弐蜂

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Published in Japan - Social interactions and entertainment - 29 Jan 2019 01:30 - 0

かんじょうとは、そのとき、そのばであらわれるじぶんじしん。

そこで、ぶっきょうでいうところのじがの「が」とは、こころが
おちついたじょうたいでのじぶんじしんであり、ここにふだんの
じぶんがあって、また、べつに、そのときとばで、かんじょうに
ながされたときのじぶんがある。
かんじょうとは、じぶんじしんが、そのときとばにおうじてあら
われるこうふんしたじょうたい。そこで、そのばにながされると
いうことが、かんじょうてきである。ほんらいのじぶんが、よか
れあしかれ、そのばでじぶんをはっきするために、たかぶって、
そのときだけのせいかをとげようとする。これは、もくてきのた
めに、もくてきにおうじて、じこあんじがはたらく。だが、これ
によって、じぶんをみうしなうばあいもある。しかも、なんだい
のまえには、ぎゃくにきんちょうする。すくなくとも、だいなり
しょうなりこうふんして、ほんらいのじぶんとちがう。

そもそもぶっきょうで、しんじんや、あんじんというのは、にん
げんらしさのなかにある、ほんらいのじぶんらしさ。つまりは、
あるもくてきや、せいかのためのじぶんのじょうたいじゃなくて、
じょうきょうにさゆうされず、こころがおちついたじょうたいで、
このときのかわらないじぶんじしんであり、じたともにみとめる
ところの、そのひとらしさ。
これがいわば、じぶんじしんをしんじるところで、むしろほとけ
をしんじて、ほとけがすくいあげるところの、じぶんじしんにお
ちつくこころ。
したがって、ひょうばんや、しょうはいや、きんせんなどのため
にどりょくするじぶんではなく、ほとけのちからにすくわれる、
にんげんらしさをもとめる、じが。
これは、たしゃにたいして、かんじょうではなく、じぶんらしさ
でむきあうときのあんしんかん。あるいは、じぶんじしんとまむ
かいになって、ほんとうの、じぶんのすがたをみつめようとする
なかにあるじぶんのこと。

かんじょうをすてることはできないが、じぶんをみうしなうわけ
にもいかない。ほとけをしんじて、しんじるこころに、じぶんを
みいだす。すくわれるじかくに、びょうどうのにんげんせいがあ
る。

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