弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 28 Jan 2019 23:24 - 0

みぢかなひとが、なくなれば、だれもがかなしむばかり。
なげき、かなしみ、みなあつまって、とほうにくれる。

そうりょが、しゅっせけんであるのは、ここにししゃを
とむらい、ごくようするほうほうがあって、このために
てらのくらしをまもる。
これは、とくどうによって、そうりょとなるが、これが
しゅっせけんのさいしょで、ぶつもんをくぐり、ぶつど
うにはいる。
てらでは、なきひとをとむらい、ごせんぞをくようする
ことにより、そのごおんにむくいて、おしえをいただく。
てらのいしょくじゅう、つまり、ころも、しょくじ、す
まいのせいかつのすべてが、おしえにいきるものとして
のいとなみにせんねんする。
これをしごととしてひきうけて、せけんから、そうりょ
がどうしとして、ししゃをとむらう。
せけんのひとびとがあつまるところに、なきひとがあれ
ば、これをくようするが、けっして、どうぶつのように
つちにかえればそれでよいのではなく、てあつくほうむ
るなかに、ひととしてのじかくと、しょうがいのくろう
と、みらいへのきぼうをせおうものとして、おしえをと
もにいただく、たいせつなじかんがある。
したがって、せけんには、そりょのかわりはない。どこ
までも、しゅっせけんとしてのしゅうきょうにみをささ
げるものが、あつまるにんげんをだいひょうして、なき
ひとと、えいえんのわかれをすることができる。

きぎょうかつどうとのちがいは、のうりょくやさいのう
があっても、かわりはできない。ほとけのおしえに、い
しょくじゅうをいただき、みもこころもささげて、ほと
けのこころざしにいきるものだけが、けっして、しりし
よくではないところに、このよのしょうごんさほうを、
いとなむことができる。

ぶっきょうのそであるおしゃかさまは、このよのしべつ
こそが、にんげんにとって、もっともつらいことである
として、ほとけのおしえを、ひとびとにとかれた。
じょうどおうじょうのきゅうさいは、ぶっきょうせかい
からせけんへの、だいじひによる、みちしるべとしての
おしえである。

せけんにおいて、てらにたいするりかいは、おねんぶつ
をいただくいがいにはない。このつながりこそが、にん
げんと、しんじつのせかいとの、ただひとつのたしかな
あかしである。

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Kame Sennin

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