弐蜂

Shogo - Newspaper from Japan -

Published in Japan - Social interactions and entertainment - 27 Jan 2019 03:37 - 0

やさしさは、いきるちからであり、にんげんのさいのうである。
どうぶつはみな、そうであるが、やさしさがであいをまねくので、
ひとは、これがとくに、ひめたるさいのう。

どうぶつでは、かぞくないのやさしさと、きびしさ。だが、ひと
は、だれとでも、このさいのうを、いかすことができる。

たしかに、きびしさはたやすく、やさしさはむずかしい。
なぜなら、ひとは、だれとでもけっかをみて、ことばをかわすの
で、このことばが、ひょうかや、かちをはかるときに、きびしさ
がそのまま、せっとくりょくとなり、えいきょうりょくとなり、
このはつげんりょくによって、じぶんじしんをまもるから。だが、
いきるためのちからは、やさしさにある。これは、じぶんのこと
ばに、こころをこめるさいのうであるから。

たしゃへのりかいりょくによって、そのこころは、ことばにあら
われ、はつげんりょくだけでなく、ことばじたいが、あいてのこ
ころをうごかし、ほんとうのきょうりょくをきずく。またどうじ
に、やさしさは、たしゃのやさしさをつちかって、きびしさにま
けず、ほんとうのやさしさは、にんげんとして、いつのじだいに
も、どのばしょでも、いきるためのさいのうとしてつうようする。

こころにとどくやさしさと、こころをすくうやさしさと、こころ
をまもるやさしさによって、いのちをいかす。どうぶつや、しょ
くぶつ、ものごとぜんぱんにいたるまでつうじるのが、ほんとう
のやさしさ。

このはたらきは、あらゆるであいそのものをまもるちからでもあ
る。

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